2016/09/22

父に伝えたいことば

murmure de chat......

父はわたしが高校を卒業した年の5月に亡くなった。57才、まだまだ惜しまれる年齢だ。

毎年人間ドッグをうけていたのになぜ病気を早期に発見できなかったのだろうとその病院に悪の念をもったこともある。

わたしが小学生のとき、一度だけ授業参観に来たことがある。そのときの同級生、先生の父の印象は「やくざ」か「政治家」

すこしカラーの入った眼鏡をかけスーツをびしっと着こなす身長185cmの父、石原裕次郎に似ていると言われていた父、一人娘のわたしを溺愛する父が本当に大好きだった。

そんな父が最近よくわたしの夢に現れる。わたしの大好きだった笑顔で買ってもらったばかりのランドセルを背負う小さなわたしの頭をなでるのだ。

そんな父への鎮魂の気持ちを込めて・・・

余命宣告

※わたしが幼稚園に入園するかしないかのはなしなので以下外聞。

父はゴルフ場のオーナーだった。当時はゴルフ=お金持ちの娯楽、そんな風潮だったらしい。

その日は百貨店の外商員が景品用のカタログや見本などを持って自宅にきていた。母が応接室に飲み物を運んだとき、父がいきなり倒れた。静かに床に倒れこんだ父を病院へ。

数時間後母からすぐに病院にきてほしいとの電話があり、同居していた祖母とわたしはタクシーで病院に向かった。病院に到着すると無表情の母が医者の話を一緒に聞いてほしいと祖母に話していた。

医者の話によると、脳に腫瘍が見つかった、腫瘍は悪性でかなり広範囲に広がっている、いまの医療技術では手術しても成功率は低いとのこと。

それでもやれるところまでやってほしいと懇願する母と祖母。翌日手術をすることになった。

父に会いたいわたしは母に病室をきいたが、面会謝絶で会えないと言われ泣きながら家に帰った。(このことはうっすらだが記憶にある)

手術は開頭したものの、取れるだけの腫瘍を摘出して終了した。そして余命半年との診断がくだる。

最後は自宅で看取りたいと病院と話し合い、回復を待って父は自宅に帰った。自宅療養の父のそばにはいつも祖母、母が交代でついていた。

余命宣告など知らないわたしは、いままで仕事柄土日に家にいたことのない父が毎日家にいる生活が本当に嬉しかった。

その後の生活

最初の手術から1年、倒れる前となんら変わらない父がいた。余命宣告などなかったかのように。

わたしが小学生になったすぐ、祖母が亡くなった。身近な人の死に直面したのはこれがはじめてで死に対する恐怖心が芽生えた。

死とはいままで笑っていた人が冷たくなって身動きしなくなるんだ・・・こわい。

そんな祖母の死のショックから立ち直っていないときに父が倒れた。急に目が痛いと言ったかと思ったら泡をふいて気を失ったのだ。

救急車がくるまでのあいだ、一緒に行きたいと言うわたしにここで待ってなさいと叫ぶ母、ここから父は亡くなるまでの10数年、入退院をくりかえすことになる。

入院時は母が泊まり込みで看護につき、わたしがタクシーで洗濯物や頼まれた物をもっていき、帰りに汚れ物などを持って帰る生活。

荷物が多いから電車はダメ、タクシー代もバカにならないから週2回しか見舞いにいけなかった。

余命宣告は年々短くなるものの更新しつづけていた。

自宅にもどるたびに精神が壊れていく父。それでも元気になろうと努力していた。でも母もわたしも精神的に限界だった。

反抗期

父が入院すると母もいなくなる生活、学校からのプリントも誰にみせることなくゴミ箱へ。夜中、雷がこわくてひとり布団で震えていたこともあったけれど、もうどうでもよかった。

小学生をひとりで留守番させていると心配した人から母に忠告する人もいたが、ひとりで生活するほうが気が楽だった。

たまに帰宅し部屋の掃除や生活態度に口を出されることが不愉快でなるべく母と顔を合わせないようにした。

中学3年になり、まわりは高校受験一色。

薬の副作用で暴れるようになった父、父のことで頭がいっぱいの母とはほとんど会話もない、当然進路についても相談などしていなかった。

家にいることが苦痛だったわたしは飛行機の距離にある高校を志望していた。

わたしのことにかまう余裕がない母から、ピアノ、習字、そろばん、英会話、茶道、塾、ガールスカウト、長期の休みは海外留学とがんじがらめにされていた。

ゴルフ場の経営は信頼できる支配人に任せ、経営が安定していたこともあり金銭面で困ることはなかったからできたことだろう。

でももうこんな生活から逃げ出したかった。志望校の願書をだしてしまえばなんとかなる、そう思っていた。

わたしの知らないうちに担任と面談した母は、今の家から病院に近いところに引っ越すので志望校はここにしてほしいと具体的な学校名を上げた。

病院から家まで電車を乗りついで約2時間の距離、父になにかあったときにすぐ対応するためにと泊まり込んでいた。

引っ越しすれば母も病院に寝泊まりすることもなく家事をわたしに任せることも減り、生活が落ち着くから大丈夫だと言ったそうだ。

結果担任はわたしの希望校ではなく母のいう学校の願書を用意した。

平穏な生活

高校に入学してすぐに引っ越した。

病院にもちかく学校もなんとか徒歩で通える距離で、家にいる時間の増えた母とはなんとか少しずつ会話するようになった。

このころの父はたまにわたしが誰かわからなくなるらしく、そんなときは医者から刺激しないようにと言われていたので、そっと自室に閉じこもった。

それ以外はなるべくそばにいて学校のことやいろんなことを話した。父は黙ってニコニコわたしの話を聞いていた。

高校3年になり、高校を卒業したら就職すると母に告げた。

正直にいえばわたしにだって夢があり、それを実現するため大学に通いたい。しかも父の出身大学の特別推薦枠があり、推薦可能だと進路指導の先生に言われていた。

しかし現実はさらに衰弱して自力では歩けなくなった父の死期が近づいている。

こんな状態になって約10年、それでも「オーナーのイスは誰にも座らせませんから」と言ってくれた支配人に経営権を譲ることにしていた。

そうなると経済的に大学など行っていられないだろうと思ったからだ。

しかし母は学資保険があるから大学くらい余裕で通えるから大丈夫だと・・・

学費は大丈夫でも生活費はどうするの? 働くから心配ない。 

働いたことはあるの? 探せばなんとかなる。

連日こんな感じで話が進まなかった。 結局間をとって短大に進学することにした。

たまに正気をとりもどす父はわたしが短大に進学すると聞き悲しんだ。 父の出身校に行きなさいと言われたが笑って流すことしかできなかった。

短大の合格発表の翌日、父が救急車で運ばれた。母が目を離したすきに外に出ようとして転倒したからだ。

意識をとりもどした父に母が聞いてみると、わたしが行く短大を見てみたかったとつぶやいたそうだ。

起き上がることも難しくなっていた父がどれだけの力を振り絞って立ち上がろうとしたのだろう。

そしてこの転倒で完全に寝たきりになってしまい、数か月後に亡くなった。

さいごに

通夜、葬式はひっそり親族のみで執り行ったが、参列したい、せめて焼香させてほしいとの連絡があまりにも多くしばらくは悲しみにふける暇がなかった。

それもひと段落し、いきなり悲しみが噴き上がった。 うそでも父にあの大学に行くといえばよかった!

どうして悲しませたまま逝かせてしまったんだろう。いろんな思いが溢れ出てなにもする気力がなくなってしまっていた。

そんなある日、大好きだった笑顔の父がこどもだったわたしの頭をなでる夢をみた。

それからもわたしの気持ちが疲れた時にはこの夢をみる。不思議と目覚めたときになでられた感覚が残っていて、こころが暖かくなるのがわかる。

たぶんいまのわたしを心配してくれているのだろう。そんな父に伝えたい。

わたしが結婚したら夫になるひととお酒が呑みたいって夢を叶えてあげられなくてごめんなさい。

かわいい孫たちも見せてあげられなくてごめんなさい。

いますぐには行けないけれど、わたしがそっちに行ったらまた頭をなでてください。

お父さん、それまでもうしばらく待っていてください。

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